文化度朝鮮通信使の接遇改定 ≪朝鮮通信使・歴史・文化≫

1787年、11代将軍に徳川家斉が就任した。

本来であれば早速通信使来日となるのだが、老中松平定信は、1788年に延期要請の使者を、また1791年には江戸にかえて対馬での招聘を打診した。

交渉は難航し、結局20年後の1811年にようやく実現した。

この頃になると日朝双方とも財政難であり、経費節減志向でようやく一致したのである。

ただ、幕府の出費節減はなったが、国内的な将軍権威の発露というもうひとつの意義は損なわれた。

そのため1841年、徳川家慶が将軍につくと、老中・水野忠邦は江戸招聘から大坂招聘に変更する計画を立案している。

西国大名を接待に動員することで大名の勢力削減をおこない、一方で幕府の権威を示し、かつ大坂・江戸間の行列を圧縮することにより幕府の経費を節減できるという一石三鳥の効果を狙ったものである。

しかしこの計画は幕府内の反対にあい計画は頓挫し、以後幕府滅亡まで通信使来日の計画はのぼらなくなった。
update:2010年03月09日